小寺クリニック

院長の旅行記

2017.08.08

アンコールワットからの報告

アンコールワットからの報告

(写真:アンコールワットの夜明け)

 

アンコールワットからの報告

小寺隆史

2002年2月、石島正嗣、都井正剛、小寺隆史、の精神科医3名はカンボジア、クメール王国の遺跡、アンコールワットを訪れました。シェムリアップという、アンコール訪問のベースとなる町に入り、そこからアンコールに向かいました。

アンコールワットに入ってみると、その壮大さに圧倒されます。また、それが太陽の神殿であることを実感させられるものです。アンコールワットは正確に東西の方位軸上に建てられており、正面は真西を向いています。従って春分、あるいは秋分の日、太陽はアンコールの中央尖塔の直後から昇る。多くの人々が、アンコールでの日の出を見ようと、早朝アンコールに出向く。我々も早起きして行ってみましたが、夜明け、太陽はまずアンコールを真っ赤に染めてから、自らの姿を現す。神秘的な眺めです。真っ赤に染まった雲がとても美しい。

日没の頃に、もう一度訪れました。日没は中央尖塔に登ると、正面に見えます。多くの人がその場に座り込み、日の入りにじいっと見入っている。これがまた素晴らしく美しい。アンコールは、太陽が登る瞬間、沈む瞬間を見せるために作られた舞台であるとも思えてきて、それが太陽の神殿であることを実感させられます。アンコールワットはヒンドゥ−教の太陽神ヴィシュヌ神の神殿です。

一方、そこから太陽を見ていると、何かしら懐かしい感覚がこみあげてきます。それは、日本の仏教的風土の中で感じる、なにか心あたたまるもの、仏の慈悲とでも表現したくなるような感覚とよく似ている。アンコールに仏教的なものを感じるのです。事実、もともとヒンドゥー教寺院として建立されたアンコールワットは、現在では仏教寺院として、地元の人々の信仰を集めています。カンボジアの歴史の中で、インドから伝わった仏教とヒンドゥ−教とは、幾度かその主座を交代しています。われわれ日本人が思う程、仏教とヒンドゥー教とは「別の」宗教ではないようです。それらはむしろ、お互いに、連続性、融合性をもっていて、互いが互いを補い合う関係にある。例えば、現在、インドでは仏教は消滅し、ヒンドゥ−教が盛んになっていますが、それは表面的な話であって、インドで仏教は滅びたのではなく、ヒンドゥーのなかに生き続けているとも言われています。従って、アンコールワットは決して仏教というヒンドゥーからみての異教に奪われたのではない。ヒンドゥーから仏教へ、名目は変わったにせよ、そこには一貫した変わらないイメージが流れているようです。

アンコールにいて、何かしら暖かな、仏的感覚とでもいうようなものを感じながら、直感的に私は、釈迦的なものと、ヴィシュヌ神的なものとは本質的なところで、共通性をもっているのではなかろうか?と考えはじめました。それが今回の旅の出発点となります。

われわれ多くの日本人にとって、ヒンドゥ−教は仏教に比べて遥かになじみが薄い。しかし、かつてインドでの仏教は、密教という最終形態において、ヒンドゥー教を大いに吸収して発展している。あるいは、密教とはヒンドゥー化された仏教といっても過言ではありません。ご存知のとおり、その密教を日本に持ち帰ったのは空海でした。空海が日本に輸入したのは、密教の中期のもので、中期密教と呼ばれています。これを純粋な密教という意味で、純蜜とも呼びます。その、中期密教の中心尊となっているのは大日如来(マハーヴィルシュナ)でありますが、これは、ヒンドゥー的な太陽神を導入したものである可能性があります。ヒンドゥーの側の太陽神とは、スーリヤという太陽神がもともといたのですが、これは後にヒンドゥー教の2大神の1つ、ヴィシュヌに吸収されていきます。ヴィシュヌが大日如来となった、というのは少々乱暴かもしれませんが、少なくとも、ヴィシュヌがもっている太陽神としての象徴性が仏教にも流れ込み、それが大日如来の前身となった毘廬遮那仏の成立と大いに関係していると思われます。

また、このようにも考えられます。もともとは釈迦を中心としていた仏教が、大日如来を中心とするようになっていきました。このことは釈迦に太陽の象徴性がもともとあったからだろうと。そうであるならば、釈迦とヴィシュヌとは共通した象徴性を持つものと考えれらます。

いずれにせよ、ヴィシュヌと釈迦のイメージが重なりあうことは、確かなようで、その傍証は、図像や神話のなかに見いだすことができます。それらを少し見てみましょう。

◆ ナ−ガとの関係をめぐって

以前、私は、カンボジアから出土した釈迦の瞑想像を見て、たいへん驚きました。(写真A)それは、我々日本人が見なれた釈迦の像とは、かなり違ったものだったからです。その像の背後には、複数の頭をもったコブラが鎌首をもたげて釈迦を背後から囲んでいました。このコブラは、インドでは、ナ−ガとよばれている神聖な蛇です。

 

写真A ナーガを背景に座る釈迦像

(芸術新聞社刊「クメールの芸術」より)

一方、このナ−ガはヴィシュヌ神ともかかわりが深い。ヴィシュヌ神の像で、やはりナーガを背景にしたものがあるのです。(写真B)釈迦の台座となるナーガ、そして、ヴィシュヌの台座となるナーガ。ヴィシュヌと釈迦とは同じように、ナーガに守られています。

写真B ナーガを背景に座るヴィシュヌ神

(原書房刊「神話百科」より)

写真C ナーガに守られて瞑想する釈迦像

(インド:ブッダガヤーにて)

また、釈迦とナーガの関わりについて、このような物語もあります。釈迦がブッダガヤーにある池のほとりで瞑想していたとき、突然嵐が襲い、それを池の中に住んでいたナーガが助けたという伝説があります。

ブッダガヤーは釈迦が悟りを開いた場所であり、(後の第2回インド旅行で、我々は、そこを訪れたのですが、)そこにある伝説の池には、ナーガに守られて瞑想している釈迦の像が池の中に建てられていました。(写真C)

一方、神話で、ヴィシュヌはナーガのうえに横たわっている姿が有名です。神話に曰く、「ヴィシュヌはこのナ−ガの上に横たわり、悠久の眠りについていたとき、そのヘソから蓮が生えて、そこからヒンドウーのもう一柱の神、ブラフマーが生まれる。そして、このブラフマーによって宇宙は創造されるのである。」つまり、ヴィシュヌの眠りが、世界の創造につながる。この眠るヴィシュヌの姿は、釈迦の涅槃像からの影響だとする説が唱えられています。逆に、釈迦の入滅は、世界の創造と捉える事ができます。

 

ナーガの上で眠るヴィシュヌ、

(そのヘソからにブラフマーが生まれそれから宇宙が創造される)

アンコール遺跡群西メボンから出土した、巨大な眠るヴィシュヌ像

(芸術新聞社刊「クメールの芸術」より)

このように、ヴィシュヌの周囲にはナーガがいる。そのため、アンコールワットにも、多くのナーガ像があります。正面の入り口にとなっている橋の欄干はそれ自体がナーガになっています。

さらに、ヴィシュヌと釈迦の類似性は、実はヒンドゥー教神話の中に、より直接的に示されています。ヴィシュヌ神はさまざまなものに化身して、活躍するのですが、その内の一つが釈迦とされているのです。つまり、ヒンドゥー神話では、釈迦はヴィシュヌ神の一つの化身となってとりこまれています。

ヴィシュヌの10化身(カルカッタのインド博物館にて)

向かって右から、(1)魚、(2)亀、(3)猪、(4)人獅子,(5)矮人(小人)、(6)斧を持つラーマ(パラシュラーマ)、(7)ラーマ、(8)クリシュナ、(9)仏陀、(10)カルキ、釈迦は9番目の化身として登場する

アンコールワットを訪れて、ヴィシュヌの象徴性が仏教に確実に流れ込んでいることを感じました。ただ、そこにまた新たな疑問が生じます。ヒンドゥー教のもう一方の主神である、シヴァについてはどうなのか。その象徴性は仏教に流れ込んだのだろうか。

日本に空海が持ち帰った密教とは、密教のなかで時期的に中期に成立した、中期密教と呼ばれるものです。前に申しましたように、その中心にある尊格とは、大日如来であり、高野山に保存されている、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅の両方の中心に座しているのは大日如来であります。それはヴィシュヌ的な象徴と共通したものでした。

では、その後に成立した、後期密教については、どうっであったのでしょうか? これは、インドからチベットに伝わり、チベットに保存されている密教で、いわゆるチベット密教/ラマ教と呼ばれているものです。この密教は中国、及び日本には表立って入って来ていない。この後期密教こそ、ヒンドゥー教のもう一方の主神である、シヴァ神の象徴性が仏教に流れ込んだものであったと、筆者は考えます。というのは、チベットの曼荼羅をみると、その中心には日本の曼荼羅には全く見られない、毛色の異なった尊格が描かれています。それは大日如来—ヴィシュヌの系統とは全く異なった、シヴァの象徴性を強烈にもつものでありました。

ところで、アンコールワットにはその周辺にアンコール遺跡群と呼ばれる、多数の遺跡が存在しています。その中で、最も有名なのが、アンコールトムという巨大な遺跡の中にある、バイヨンという仏教遺跡です。この遺跡は巨大な顔の像が特徴で、顔は4面につくられている。(写真A B)

写真A バイヨンの顔の4面像

写真B バイヨンの4面の顔の像

アンコールワットを1861年に再発見したフランス人 アンリ・ムーオは、この像のことを密林から巨大なシヴァの像が出現したと記しています。これは、後に仏教遺跡と考えられるようになり、現在では、これらの像は観音菩薩像とされています。ところがです。この旅行の翌年に我々はインドを訪れるのですが(第1回インド旅行)、その旅で、我々はムンバイ(ボンベイ)の沖に浮かぶエレファント島という島に行きました。そこは石窟寺院あり、その中にシヴァ神の巨大な像が残っているのです。そのシヴァ神の写真を見ていただきたい。(写真C)

写真C インド、エレファント島のシヴァ神像

アンコールトムのバイヨンの4面像と、このエレファント島のシヴァ神像は、かなり似ています。むしろ、アンリ・ムーオの直感は正しかったのではないかと思えてきます。

仏教遺跡、ヒンドゥー教遺跡という区別の枠を一度外して考えるならば、アンコールワットがヴィシュヌ的な神殿であったのに対し、バイヨンはシヴァ的な象徴性をもった神殿であったのではないか。事実、アンコールワットと、バイヨンとは、その神殿の雰囲気が全く違うのです。

先述したように、現在ではこのバイヨンの像は観音菩薩像であるとされていいます。(その根拠を明確に示した文献はいまのところ見当たらないのですが)それでは、観音菩薩と、シヴァ神との接点はないでしょうか?このことについて、宗教学者の彌永信美(いやなが のぶみ)は以下のような興味深い論証を展開しています。彌永はその著作「観音変容譚」の中で、観音菩薩という仏教の尊格自体が、実はシヴァ神の象徴性と密接に関係していることを記述しています。その根拠として、シヴァ的な要素、とくに「性」が仏教に入り込んできたとき、それが女性像として表現されたということを挙げています。というのは、それまでの仏教は性および、女性を遠ざけており、その意味からも、尊格はすべて男性像であった。男性像は男性というよりは、性を無視した、中性的(無性的)なものとして存在していた。したがって、性を受け入れることは、女性像の成立によって象徴的に表現された、という。一方、観音菩薩像は、もともとは男性像であったものが、女性化してゆき、シヴァ的な象徴、特に「性」の仏教への流入の、大きな受け皿となった、と指摘している。また、「観自在」の原語Avalokitesvara の中に、シヴァの重要な異名である、Isvara が含まれていることは、事実であると、指摘しています。

この観点からするならば、バイヨンの像が現在、観音菩薩像とされていることと、それがシヴァ的なイメージを強くもったものであることとは、矛盾しないと思われます。

先述しましたように、シヴァ的な要素は最後の仏教である後期密教において、中心的な位置を占めるようになります。そして、このバイヨンが仏教遺跡であることを考えると、後期密教と本質を同じくする仏教がここに成立していたことになります。そうであるならば、バイヨンにおける仏教はチベット密教と兄弟関係、あるいは、従兄弟関係ということにもなりそうです。チベットにしか保存されていないとされていたものが、ここ、クメール帝国にもその本質を残しているといってもよいのかもしれません。

さらに、アンコールワットや、このバイヨンが、本質的に密教的な性質を持っていることは、これらの建物の配置自体が立体曼荼羅の配置になっていることからも窺い知ることができます。ここでは、建物自体が曼荼羅となっています。

あとがき

ヒンドゥー教と仏教とは、互いに密接に関わっており、それらは違う二つの宗教というよりも、大きな全体性の表裏をなすものと思われます。そのことをアンコールワット遺跡群は、ヴィジュアルに、直接的に提示してくれるものでした。そこには、ヒンドゥー教、仏教という枠組みを超えた、いわば密教的な空間が広がっているといえます。空海が日本に持ち帰った密教を、ヴィシュヌ神的な密教と呼ぶならば、他方に、空海の密教ではむしろ隠されていた、シヴァ神的密教と呼べるものがある。アンコール遺跡群は、その両方を包含し、あたかも密教の全体像を呈しているかのように思えてきます。