インド旅行記1:宗教について考えながら
インド旅行記1:宗教について考えながら
小寺隆史
2003年3月、石島正嗣,都井正剛、小寺隆史の3人は、アンコールワット訪問から1年後、インドを旅行することができました。これはその報告です。
前回のアンコールワットへの旅で、筆者はヒンドゥー教と仏教の表裏一体性に気づくことになりました。また、仏教に、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神とシヴァ神という2つの異なる象徴性が流入し、展開していることにも、気づきました。そこで、やはりそれらの源流、つまり、インドを見てみなくては、という思いが今回の旅行の動機となっています。
デリーに空路入った私たちは、鉄道で、まずカジュラハホへと向かいました。カジュラハホには、ヒンドゥー教の寺院群があり、その壁面に大変エロティックなレリーフがあることで有名です。ミトゥナ像といわれるそれらの彫像は、これが寺院にあるものかと、戸惑うほど、奔放な性の表現が随所に見られます。これらはシヴァ神の神殿です。
カジュラハホの寺院の1つ(シヴァ神殿)
その壁にあるミトゥナ像のレリーフ
前回のアンコールワットレポートにて報告しましたが、ヴィシュヌ神の太陽的なイメージに対して、シヴァ神は性のイメージと強く結びついています。シヴァのシンボルがリンガと呼ばれているものであり、それは男性を表す突起状の造形物です。リンガの下には、ヨーニと呼ばれる女性を表した受け皿があり、それらが一体となっています。(写真)このリンガ/ヨーニが寺のあちこちに見られるのです。
リンガ・ヨーニ
これらカジュラハホのレリーフを見ていると、これが、あの禁欲的な仏教を生んだ、同じ国のものなのだろうかと、戸惑ってしまいます。しかし、最後の仏教である後期密教において、「性」は仏教に流入し、かつ重要な役割を果たすこととなります。後期密教は日本には輸入されず、したがって、我々は「性」を受容した仏教にほとんどなじみがないわけです。それだけに、ここインドにおいて、特にシヴァ派の寺院をみると、日本人には隠されてきた半面を見る思いがします。
次に我々はサーンチーを訪れました。サーンチーは仏教遺跡で、そこには紀元前3世紀にアショカ王によって建てられた世界最古のストゥーパ(仏塔)があります。このストゥーパには、四方に塔門があって、その門に見事な彫刻がほどこされているのです。しかし、そこには仏像はありません。この時代、未だ仏陀の直接の像をつくることはタブーだったのです。しかし、そのなかに、仏陀を表す象徴は多々見られる。1つは仏足。1つは法輪、そしてもう1つは菩提樹です。そして、法輪と菩提樹の上部には傘の象徴があり、これも仏陀を表しています。
サーンチーのストゥーパ(仏塔)世界最古の仏塔である
仏足:仏陀を表している
法輪:上の丸い部分で、仏陀の教えを表している。その上部に見える大阪市のマークのように見える文様は、傘でありこれもブッダを表している
菩提樹(中央の上部):菩提樹は仏陀を表していると同時に、菩提樹の上には、キノコ型の傘があり、これもブッダを表している。
上の拡大写真
菩提樹と傘の組み合わせが、まるでストゥーパとおなじ形をしているように思われる。法輪の上にも傘があり、これも仏陀を表しているという。
傘というものは、雨から我々を守ってくれるわけだが、その意味で、仏陀は雨系の神と対峙する存在なのかもしれない。雨系の神とは、エリアーデが言うように、典型的にはギリシャ神話のゼウスであり、インド神話においては、インドラである。これらは暴風雨の神である。その意味からすると、インドラの流れを汲むシヴァも雨系の神である。これに対する仏陀のイメージは、慈悲深く保持するというイメージであり、やはり後のヴィシュヌ的イメージと結びつくものであったのだろう。
仏陀を表す象徴(法輪、菩提樹、傘など)が豊富に彫刻されている
次に私たちが訪れたのは、アジャンタとエローラの石窟でした。地理的には、どちらもサーンチーと比較的近いところにあります。まずアジャンタを訪れました。アジャンタは、ワゴラー川がデカン高原の岩の大地を削り取った谷の断崖にあります。断崖は川の流れに沿って、馬蹄形に湾曲している。そこに仏教石窟が30窟ほど造設されているのです。
アジャンタ石窟寺院
アジャンタは紀元前1世紀の前期窟と紀元5世紀の後期窟の2回に分けて造設された仏教の石窟寺院です。その30ある石窟は、訪問ルートの手前側から、番号がつけられていて、(写真では、向こう側から)そのうちの第1窟は最も有名です。というのは、そこには、法隆寺壁画の源流ともいわれている、蓮花を手に持った菩薩、蓮華手菩薩が描かれているからです。(写真)
この第1窟は5世紀の後期窟のもので、中央に仏陀像(これは彫刻)、そしてその両側に壁画として、左にこの蓮花手菩薩像、右に金剛菩薩像が描かれています。実は、釈迦像を囲むこの2つの菩薩というこのパターンが、釈迦以外の仏像が現れた、最初のパターンではないかと私は思っています。
左の蓮花手菩薩(法隆寺壁画の源流)
右の金剛手菩薩
時代は前後しますが、アジャンタの石窟の内、紀元前1世紀に造られた前期窟群には、仏像の姿はまだありません。ご存知の通り、仏教は当初、仏像をつくることを禁じていました。偶像の崇拝は執着であると考えたのでしょう。最初の仏像の出現は紀元後1世紀のガンダーラ、及び、マドラーを待たなければなりません。従って当然、紀元前1世紀に造られた初期のアジャンタの石窟には、まだ仏像はなく、崇拝の対象は仏塔でした。(写真)これは先述のサーンチーの世界初のストゥーパとも時期的に近接しており、それと連続性を感じさせるものです。この時代、仏教は出家者による部派仏教でした。
アジャンタの初期窟(前1世紀)にあるストゥーパ:仏像はまだない
では、アジャンタにどのような形で仏像が出現したのか。それを教えてくれる窟があります。紀元後5世紀に造られた後期窟群の1つである第19窟です。(写真)この窟には、やはりストゥーパがありますが、その前面にブッダの像が出現しています。もともと釈迦を表していたストゥーパから、釈迦像が抜け出してきたようにも見え、興味深いものです。「仏像の誕生」と呼びたくなるような像でした。
アジャンタ後期窟:第19窟(5世紀)釈迦像が出現したストゥーパ
仏陀の像が成立したあとは、どうなったのでしょうか?その後、長い年月を経て、例えば日本の仏教寺院で見るような多種多様の如来像や菩薩像が成立するまで、仏像はどのように変遷してきたのだろう?という素朴な疑問が、もともと私にはありました。要するに、仏陀以外の仏像がどのように成立してきたのか?という疑問です。
私はこのアジャンタにおいて仏陀以外の最初の仏像の出現をみることができるのではないかと、密かに推測しています。先に述べました、最初に訪れた第1窟には、仏陀像を中心において、その両側に蓮華手菩薩と金剛手菩薩が描かれている。この2つの菩薩像こそ、最初に出現した仏陀以外の仏像ではないかと、思う訳です。このことは、定かではありませんが、このアジャンタ石窟と、その後で訪れるエローラ石窟のほとんどの窟で、中央に釈迦、左に蓮華手、右に金剛手というパターンが繰り返されます。このパターンは非常に重要なパターンだと、いえます。また、アジャンタでは紀元後5世紀まで釈迦の像は出現しておらず、その同じ5世紀に2つの菩薩が出現しているからです。
次に我々はエローラ石窟寺院を訪れる。アジャンタが仏教のみの石窟寺院であったのに対し、エローラではヒンドゥー教、仏教、そしてジャイナ教の三つの宗教のエリアがある。中央のエリアにヒンドゥー教、むかって右側に仏教、左側にジャイナ教とある。ここでは、まず仏教のエリアを訪れた。エローラの仏教石窟は7世紀から8世紀に作られたものである。この頃、インド仏教は、密教が完成すると同時に、衰退し始めた時期にあたる。7世紀は、密教の中心的経典である、大日経と金剛頂経が成立した時期にあたります。
エローラ仏教石窟群に向かう
さて、ここでの仏像はどうなったかというと、ここでもアジャンタ第1窟のあの蓮花手、金剛手のパターンが継承されています。先述しましたように、ほとんどの窟で、中央に仏陀、左に蓮華手菩薩、右に金剛手菩薩、というパターンがみられるのです。(写真)
エローラの僧院窟の基本的パターン
左に蓮華手菩薩(蓮の花を持っている)中央に釈迦如来、右に金剛手菩薩(手に金剛杵を持っている)
また、次の写真のエローラの仏像はストゥーパの前面に掘られたものであるが、やはり、中央に仏陀像、左に蓮華手菩薩像、右に金剛手菩薩像(拡大写真)があります。アジャンタに引き続き、この仏像のパターンがいかに仏教にとって重要なものであったかが、想像できます。
エローラのチャイハナ窟のストゥーパ前面に掘られた仏像
左の蓮華手菩薩(拡大図)手に蓮の花を持っている
右の金剛手菩薩(拡大図)手に金剛を持っている
ところで、我々日本人はこの二つの菩薩に、あまりなじみがありません。我々が日本で多く見ている仏像は、空海が密教を輸入した後のものであり、多くは密教において成立した仏像といえます。この蓮華手菩薩、金剛手菩薩は、もっと原初的な仏像であり、密教的な分化が起る以前のものと考えられます。
しかし、この最初の2つの菩薩が手に持っているもの、蓮花と金剛は、その後の仏教のなかで、重要な象徴として受け継がれてゆき、日本の仏教でもなじみ深い象徴であると思われます。
蓮華は、泥の中からあの美しい花を咲かせる蓮華は釈迦の教えを具現する花です。C.G.Jungの言葉を借りるならば、それは自己(セルフ)の象徴です。蓮は泥の中に育ち、美しい花を咲かせるため、自己実現の象徴とも考えられわけです。それはまた、ユングの研究した錬金術のイメージと重なる。錬金術は真っ黒なもの(ニグレド)から、最終的に金を生み出す。蓮が泥の中にあるということとは、ニグレドのイメージと重なります。ユングは錬金術を人間の心の自己実現のプロセスをあらわしたモデルと考えました。蓮は錬金術的な花とも言えるのでしょう。
一方の金剛はダイヤモンドのことです。これもまた日本の仏教にとってもなじみの深い象徴です。空海が持って帰った密教の重要な法具にこの金剛があります。これはもともと、天空の暴風雨神が持っている、稲妻を武器としたものであり、それが仏教にはいり、ダイヤモンドと同一視されたといわれています。ダイヤモンドもまた、自己(self)の象徴と考えられます。
インドでは、大乗仏教が興隆するにつれ、従来の宗教であった、バラモン教は仏教に信者を奪われることとなりました。バラモン教がカーストによる差別性、閉鎖性を強く持っていたのに対し、仏教、特に大乗化した仏教は平等と博愛を説いたため、民衆に大いに支持されるようになったようです。
一方、バラモン教の側も、この仏教に触発されて、宗教変革がおこる。それは、バカギット ギータという博愛を歌った詩編によく表されています。その改革運動により、バラモン教はヒンドゥー教として生まれ変わります。ヒンドゥー教は博愛の精神を取り入れた宗教となり、インドの人々の絶大な信仰を集めはじめます。そのため、逆に仏教がヒンドゥー教に押されはじめます。その状況のなかで、今度は仏教がヒンドゥー教の豊かな象徴性を自らのなかに受け入れはじめたのです。ここに仏教のヒンドゥー化が進行し、そこに成立したのが、最後の仏教である密教にほかなりません。
このように、仏教とヒンドゥー教はお互いにキャッチボールをするように、影響を与えあいながら、発達してきた宗教です。いわば、この2つの宗教は兄弟関係、あるいは、同じ宗教の表と裏の関係にあると言えます。
ところで、この蓮華と金剛という象徴は、仏教から始まったものなのでしょうか?それとも、ヒンドゥー教から仏教に流れ込んだものなのでしょうか?アジャンターの第2期は紀元後5世紀の造設なので、大乗仏教の成熟期であり、一方、ヒンドゥー教が成立し始める時期でもある。どちらが先かという議論はあまり実りがないものと私には思えます。ユングの言うように、象徴とは、我々自身の奥底に普遍的に存在するものと考える方が自然だと思うからです。
事実、この蓮花と金剛の2つはヒンドゥー教のなかでも、大変重要な象徴性をもっています。ヒンドゥー教には、二大神ヴィシュヌとシヴァがいますが、蓮華はこのうちのヴィシュヌと関係が深い。一方の金剛は、シヴァ神と密接な関わりがあります。
前回訪問したカンボジアのアンコールワットは、従来ヴィシュヌの神殿であった。そこには、美しい蓮の池が前面に配置されている。いまだにそこには蓮が咲いているのです。アンコールの所でも、述べましたが、神話では、ヴィシュヌ神がナーガの上で寝ていた時、その臍から蓮がはえ、その花のなかにブラフマー神が誕生します。そのブラフマーが世界を創造する。(ヒンドゥー教ではこのブラフマーを加えて三大神となる。)
一方、金剛はシヴァが持っている三つ又の武器です。シヴァは暴風雨神のインドラの流れを汲むため、武器としての稲妻を持っています。それが、この三ツ又の武器の起源です。空海が持ち帰った法具としての金剛はこのシヴァの武器が、仏教に導入され、変形したものとみて間違いありません。三つ又の武器はそこでは先を内側に曲げられた形をとっています。
また、蓮花と金剛は、高野山をはじめ日本でみられる密教曼陀羅のなかでも、重要な役割を果たしています。空海が持ち帰った曼陀羅は周知のとおり、胎蔵界曼陀羅と金剛界曼陀羅の2つがあります。いわゆる両界曼陀羅です。蓮華は、胎蔵界曼陀羅の中心に八葉の蓮花が描かれていることからも、この曼陀羅の中心的なシンボルです。いっぽう、金剛はそれが金剛界曼陀羅という名称にもなっているように、この曼陀羅の中心的はシンボルです。金剛界曼陀羅は全体が3×3=9個の部分に区切られていて、それがあたかもダイヤモンドのカッティングを思わせます。
両界の曼陀羅の中心に鎮座するのは、大日如来でして、もはや釈迦如来ではありません。それはこれが既に密教の曼陀羅であることをあらわしています。しかしながら、蓮華と金剛という、アジャンタの釈迦像の両側に配置されていた2つのシンボルは、そのまま生き続けているのでは、ないでしょうか。
胎蔵界曼荼羅(蓮の花の曼荼羅)
金剛界曼荼羅(金剛:ダイヤモンドの曼荼羅)
さて、エローラの仏教石窟は全部で12窟あります。その内第1窟から第10窟までは7世紀に、第11窟と第12窟とは8世紀に造られたものである。この8世紀に造られた第11窟と第12窟とは、それまでのものとかなり変化があります。
と、言いますのは、仏像の種類が急増するのです。特に第12窟には、それまで中心仏は釈迦如来像だったのが、その他の如来が、ずらりと勢揃いするのです。
このことについて、フランスの宗教学者ベルナール フランクが、仏教が多くの仏を出現させた経緯を「日本仏教曼荼羅」のなかで、次のように説明しています。仏教は釈迦が入滅したあと、世を救うものとして、弥勒菩薩を立てます。ところが、弥勒が次なる仏としてこの世にあらわれるのは、釈迦入滅後、56億7千万年後のこととされています。それでは、それまでの間、この世を救ってくれる仏はいないのだろうか?民衆はそれこそを求めます。そこで、現在の仏として、太陽神であり、宇宙神である大日如来が出現します。これが、密教の中心仏となります。それだけではありません。宇宙は、我々の住んでいるこの宇宙だけではなく、その東西南北にも宇宙がありそれぞれに、中心となる仏が居る。われわれになじみの深い阿弥陀如来は、西の宇宙の中心仏です。西の宇宙とは浄土のことであって、ここに浄土思想の中心仏としての阿弥陀如来が出現します。
西の阿弥陀如来以外にも、北、南、東に加えて上と下の宇宙にも、如来が居られる。空間を異にして合計7つの宇宙の如来が居て、我々を救ってくれるという思想がここに成立します。
私は、このベルナールのこの論説から、これらを空間軸的如来群と呼んでみました。空間軸的如来は7仏居れることになります。ところが、それだけではないのです。再びベルナールによると、歴史的に釈迦が出現する以前にも6尊の仏がこの世に現れていたとする思想が出現したのです。いわゆる過去仏といわれるものです。余談になりますが、シルクロードのベゼクリフ千洞には、釈迦の前世物語として、釈迦が過去仏に尽くしたというテーマの壁画が残されています。釈迦以前に代々6尊の如来がおられた。私は、これらを時間軸的如来群とよんでみることにします。これらは、釈迦とあわせて7如来となります。
左側、時間軸的7仏:過去仏(7仏のうちの4仏)
右側、空間軸的7仏(7仏のうちの4仏)
以上の空間的仏の7尊に加えて、時間的仏の7尊で、14の如来が、エローラの第12窟に勢揃いされているのです。(写真) 写真のむかって、左側に時間軸的如来の7尊、右側に空間軸的如来の7尊が並んでいて、これはその仏教的ストーリーを考えると、時空を包含した壮大な眺めといえましょう。
次に、私たちは仏教窟をあとにして、ヒンドゥー教の窟のエリアに向かいました。エローラは、第1窟から12窟までが仏教の石窟、第13窟から第29窟まではヒンドゥー教の窟となっています。その中でも第16窟はカイラーサ寺院といい、桁違いに巨大なものです。(写真)これは窟というよりは、岩山からビルディングを掘り出したような寺院で、その高さは35メートルに及びます。
カイラーサ寺院(エローラ第16窟)
まずは、その大きさに圧倒されます。よくもまあ、こんなものを岩から掘り出したものだと。写真は岩山の上のレベルから寺院を見ているところで、上から下へとこの巨大な建物を掘り出したようである。寺院に入るにはこの岩山を何十メートルか下に下ってそこから入らなければならないのです。中に入ってみると、入り口のところで、我々を出迎えてくれたのは、実にダイナミックな動きを見せるシヴァ神でした。(写真)同じ石窟寺院でも、仏教の石窟とは全く雰囲気が違うのです。仏教窟がある種荘厳な雰囲気に満ちていたのに対し、こちらは、まるで劇画をみているように、楽しげで、彫刻にも動きがあります。また、仏教窟では女性像がほとんどみられなかったのに、こちらは、いわば女性に満ちているのです。入り口を入ると次に、インドの3本の川の女神が出迎えてくれます。
入り口のシヴァ神の像
インド三大河川の女神
どの像も、動きがあり、生き生きとしていて、例えれば、ルネサンスをみているような、開放感があります。
古来からインドには各種ヴェーダが物語る豊かな多神教世界がありました。それが、バラモン教でした。しかし、バラモン教はカースト制度を堅持しており、それはカーストの低い民衆を苦しめる側面をもっていました。それにたいする批判勢力として、仏教が起ります。仏教は博愛、平等を説きました。しかし、一方、仏教の禁欲性、解脱主義がある種の重苦しい空気を醸し出していたことは想像に難くありません。この間、バラモン教は仏教の博愛精神を見習い、それを取り入れることによって、ヒンドゥー教へと生まれ変わります。もともとバラモン教がもっていたイメージの豊かさ、象徴性の豊富さは、ヒンドゥー教の人間賛美的側面を生み出します。その開放性が、このカイラーサ寺院には満ちあふれているように感じられました。釈迦が遠ざけよと口を酸っぱく説いた、性や怒りは、ここでは神のなせる技として、肯定的に表現されています。それはひいては生身の人間の肯定を感じさせます。
それを大きく支えているものは、物語のようです。カイラーサ寺院にはインド国民から絶大な人気を古代から現代まで引きつけているラーマーヤナとマハーバーラタを物語ったレリーフが置かれています。
ラーマーヤナの物語のレリーフ
マハーバーラタの物語のレリーフ
ラーマーヤナは、ラーマ王子が、猿の将軍の知恵を借りて、敵を討つ大活劇で、中国の孫悟空の物語に大きな影響を与えていると言われています。また、現代では、スターウォーズがこの物語から多くのものを借用したようです。
カイラーサ寺院の内部;さまざまな彫刻に溢れている
さて、私たちは旅行は最終地である、ムンバイ(ボンベイ)に向かいます。ムンバイは海に面した、海洋交易で栄える町で、ジャイナ教徒が多い。ジャイナ教の信者はお金持ちが多いそうです。その沖合にエレファンタ島という、ヒンドゥー教の石窟がある島が浮かんでいます。私たちは船でその島に向かいました。
ムンバイのインド門:ここからエレファンタ島行きの船に乗る
エレファンタ島遠景
エレファンタのヒンドゥー教石窟は、やはり世界遺産に登録されているもので、6世紀から8世紀にかけて造設された、シヴァ神の神殿です。神殿に入ってすぐに我々を出迎えてくれたのは、やはりダイナミックな踊るシヴァ神の像でした。
エレファンタ石窟の入り口
踊るシヴァ神
また、この神殿のなかで、とても興味をそそられるシヴァの像がありました。
それは、大きなシヴァの3面上半身像であす。(写真)これはあのアンコールワット遺跡群の中の仏教寺院バイヨンにあった4面の観音菩薩像と、たいへん似ていました。こうしてみると、やはり、あのアンコール遺跡群のバイヨンは、シヴァのイメージが、強く入り込んだ遺跡だろうと、思えてきます。
エレファンタの3面のシヴァ神
アンコール遺跡群:アンコールトムの仏教遺跡バイヨンの4面の観音菩薩
徒然なる考察
仏教において、仏像が成立して、その後、釈迦以外の仏像が成立していった時代、それらははじめ2つの象徴を手にしていました。それは、蓮華と金剛でした。それが、ヒンドゥー教から流れ込んだものかどうかは、定かではないものの、一方のヒンドゥー教の側でも、これら2つの象徴は、それぞれ、2大神ヴィシュヌとシヴァの象徴となっています。
早い時期から、この2つの象徴が仏教に出現していたことは、その後の密教の展開のなかで、ヴィシュヌ的なものと、シヴァ的なものが仏教に流入し、それぞれ時代を分けて中心的な役割を演じていったことの、布置となっているようにも思われます。
この2つのイメージはどちらもが重要で、しかもお互いに補い合う性質をもっているようです。
蓮華的—ヴィシュヌ的なものとは何か?金剛的—シヴァ的なものとは何か?私ははそれらが2つの異なる超越性を表現していると感じています。
蓮華的—ヴィシュヌ的なものは、何でしょうか?まず、ヴィシュヌ神は太陽神です。一方、釈迦は悟りを開き、自ら光り輝き太陽化しました。後光がさすという表現もあります。後に仏教に中心尊としての大日如来が成立します。大日如来は、仏教における太陽神です。ここには、自ら悟りを開き、太陽化するという、一つの超越の仕方が提示されています。釈迦も、ヴィシュヌも穏やかで保護的、維持的な性質をもっていて、それは、太陽の恵みとして表され、それは蓮華の象徴性でもあります。
一方、金剛的—シヴァ的なものとは何でしょうか?金剛は、もともと稲妻です。それは、すべてを破壊するための武器で、また、世界を再生させるものでもあります。そこには、破壊という要素が強く入ってくるわけです。シヴァは破壊の神です。彼は金剛でもって世界を破壊し、新しい世界を再生させます。ヴィシュヌが保守的、維持的な機能をもっているのとは、対象的です。
シヴァはヴィシュヌとは全く異なる超越の仕方をする。シヴァは殺されることによって、そして、再生することによって超越します。写真で、その妻であるカーリー女神に踏みつけられ、死んだごとくになっているのはシヴァ神です。
カーリーとふみつけられるシヴァ
シヴァは、死者であり、インドの火葬場の門にシヴァの像があることからも分かるように、冥界の主であります。
かのキリストの超越性も、こちらに属するものだと考えられます。彼は磔刑に処され死に、そして復活し、そのことによって超越します。このキリスト神話の原型になったものは、エジプトのオシリス神話であるとも言われています。エジプト神話において、オシリスは従兄弟のセトに殺され、バラバラにされてナイル川に流されます。それを拾い集め、再生させたのが妹であり妻であるイシスです。ただ、そのときに一つのパーツが見つからなかった。それは他ならぬペニスでした。このことは偶然ではありません。オシリスのペニスの喪失は、その肉体性からの彼の超越を意味しています。私は、このことをもう一度キリスト神話に返して考えるに、キリストが復活したとき、その股間にはペニスがなくなっていたのではないかと想像しています。(もちろん、それは神話上でのこととしてですが。)周知のとおり、オシリスもまた冥界の主神となります。エジプトの太陽神ラーは、日没後、毎日夜の航海をする。そのときオシリスの治める冥界を通過して行くのである。これこそが、ユングが頻繁に言及している、「夜の太陽」に他なりません。オシリスは夜の太陽と共にある。
太陽と冥界(夜の太陽)。つまり、昼の太陽と、夜の太陽。この超越に関する2つのイメージが浮上します。それは2種類の超越性を象徴しているわけです。前者は、釈迦—ヴィシュヌの超越性であり、後者は、シヴァーキリストーオシリスの超越性です。
もう一度、仏教に視点をもどしましょう。仏教にとって、この2つの象徴性を受け入れていったということは、どういうことであったのでしょうか?
蓮華—ヴィシュヌの象徴性を仏教が受け入れ、中心仏としての大日如来を成立させたのは、ある種、我々にとって分かりやすいことです。というのは、それは中期密教によってなされたことで、日本に空海が持ち帰ったものがそれでありましたから。その歴史の中で、我々は、太陽神的なものが中心にあることに、あまり違和感を感じません。
ところが、もう一方の、シヴァ的なものの、仏教への流入は、ちょっと理解が難しいです。といいますのは、もともと釈迦の言ったことを忠実に記録しているスッタニパータや、ダンマパータ等を読んでみると、そこにはかなりの多くの箇所で、性を遠ざける事、怒りを遠ざける事、が説かれています。性と怒りは、初期仏教にとって禁止事項でありました。ところが、シヴァ的なものとは、もろに、この2つと関わりが深いものです。シヴァは、リンガ(ペニス)そのものであり、常に女神と一体となり、性行為そのものを象徴します。仏教に女性性が入り込むのも、このシヴァ的な象徴の流入を通じてであります。仏教は、女を遠ざけてきました。そこへ、女性を導いたのは、シヴァであったともいえるでしょう。
また、シヴァは破壊の神であります。そこには、強烈な怒りが存在します。この、怒りの仏教への流入は、必ずしも、後期の密教を待つ必要はありません。というのは、日本においても、恐ろしい形相の仏像は多く存在します。東大寺南大門の仁王像。同じく、戒壇院の四天王像。高野山の不動明王。などなど、憤怒仏といわれる仏像のグループです。しかし、これらは、どちらかというと仏を守護するものとして、周辺に配置されていた仏です。しかし、これが後期の密教では、中心に入ってきます。チベットの曼荼羅をみれば、それは明らかです。
チベット曼荼羅の中心にいる憤怒仏
しかし、あれほど釈迦が遠ざけよといっていた、この性と女性と怒りが、よりにもよって、仏教の中心部に入ってくるというのは、どういうことなのだろうか?という、これまた素朴な疑問が生じます。
仏教は、空の宗教と言われます。釈迦は何ものにも執着するな、と言いました。釈迦の最期の言葉は、「すべては、移ろう」でした。空を求めるならば、仏像など必要はない。しかし、釈迦没後約500年、仏教は仏像を持ちました。それだけではなく、その後、多神教的ともいえるほど、多種多様の仏像が生み出されてきました。これは空を求めた仏教に、色を重視する姿勢が出現してきたものと考えられます。色とは、存在のことです。般若心経にすべての存在(色)は空であるとあります。しかし、空は、また色である。色即是空、空即是色。その読み返しが絶妙だと、思います。仏教に仏像が出現したこと、そして、最終の後期密教は、性、女性、怒りをも肯定しました。仏教の存在への転換である。それは空即是色、ということではないか。密教は大きく言えば仏教の大乗化の延長上にある。大乗仏教とは、仏教の大衆化運動である。大衆は、抽象よりは、具象を求める。大衆には欲もあれば、怒りもある。仏教はそれに対し、色を提示してきた。しかし一方、その色と表裏をなすものとしての、空を忘れた訳ではない。色を提示すると同時に、その裏側にある空を常に提示してきたといってもいい。仏教とは、逆説を説く宗教であったのかもしれない。
その後のインドでは、仏教は急速に消滅してゆく。色即是空。まさに「すべては、移ろう」である。
日本では、空海が、中期密教を持ち帰り、高野山を興した。その一方、最澄の興した天台宗は、初め空海に遅れをとったものの、その後何人かの後継者の活躍で、中期密教を吸収する。そして、この天台宗から、鎌倉新仏教が誕生する。親鸞、日蓮、栄西、道元はすべて、比叡山延暦寺で、修行を行っている。
自力本願といわれる禅宗は、空を求める宗派といえる。特に道元の興した、曹洞宗では、座禅においてひたすら、空を求める。これに対し、他力本願といわれる、浄土宗、浄土真宗は、色を手だてとする宗派ではなかろうか。つまり、阿弥陀仏という存在に絶対的に頼る。南無阿弥陀仏と唱えることによって、自らのすべてを阿弥陀に委ねる。これは、安易に見えて、そうではない。なぜならば、阿弥陀に委ねた結果どんな事が起ろうが、それを私は引き受けますという、決意表明でもある。それは、壮絶な覚悟を伴った営みとも言える。この意味において、自力と、他力とは、底のところでつながっている。
中期密教を次ぐものとして、インドでは後期密教が成立し、時代は異なるものの、日本では、鎌倉仏教が成立した。とくに浄土真宗は多くの信者を抱えている。
その浄土真宗で、悪の問題と、性の問題が浮上したことは、興味深い。前者は、悪人正機説として、後者は親鸞の女犯の夢の問題として。そして、僧侶が結婚するという、他の仏教国では考えられない事が、日本では通常化している。
一方、インドの後期密教も、シヴァ的がものの流入というかたちで、本質的にこれと同じ事が起ったといえる。シヴァは、破壊、怒り、悪、そして性に満ちている。
仏教はインドで消滅したというが、おそらく、それは違うのだと思う。仏教自体は空となり、ヒンドゥーのなかに重要なものとして生きている。ヒンドゥーは強烈なほどの色の宗教である。それを空となった仏教が裏打ちしているのであろう。