小寺クリニック

論文・短文集

2017.08.10

老年期における危機と変容:引退を契機にめまいを訴えた一症例  (精神療法,金剛出版,26(4):59-65,2000.)

老年期における危機と変容:引退を契機にめまいを訴えた一症例  (精神療法,金剛出版,26(4):59-65,2000.)

【症例研究】

老年期における危機と変容

———引退を契機にめまいを訴えた一症例———

小寺 隆史※

Crisis and transformation in old age:A case of a retired man feeling giddy.

※小寺クリニック,Takashi Kotera:Kotera Clinic.

 

抄録:老年期にもライフサイクル上の大きな節目が存在するという視点から、老年期に精神的な危機に陥ったケースについて報告し、考察を試みた。症例は定年後も企業の役員職を歴任し、75歳で完全に引退、その際にめまいを中心とする身体症状を訴えたケースである。企業人として外面的、具体的な事象が重要視される世界にのみ生きてきた人で、そのためもあって自らの内面性への気付きに未分化なところがあった。このことは第一に内面的な危機を、めまいという身体症状としてしか認知できなかったことの原因となり、第二に自らの「老い」を受容するということ自体を大変困難なものにしていた。「老い」の受容には、人生の前半の上昇的、効率的な価値観とは異なる、人生の後半の価値観を必要とし、そのためには自らの内面性への気付きが不可欠である。本症例はその内面へと向かう価値観を遅ればせながら展開することによって危機を乗り越えた一例である。

Key Words:老年期の危機,ライフサイクル,老いの受容,内面性への気付き,人生後半の価値観

 

はじめに

老年期に心理的危機に陥った多くの患者と会っていると、老年期は単に人生が終焉して行く段階ではなく、むしろ大きな変容を含む段階でもあることに気付かされる。そこにはライフサイクル上の大きな節目が横たわっており、いわば人生の最後の成長段階があると考えられる。Erikson,E.H.(1986)もこのことを、「実存的アイデンティティの最後の成熟との対面」と表現している。

老年期にはまず自らの「老い」を受容するという課題が存在する。しかしながら、現代社会ではこの「老い」はできるだけあってほしくないもの、できるだけ遅く来てほしいものという位置に置かれているため、これらの課題はより困難なものとなる。現代社会の上昇的で効率的な価値観の中では、「老い」は単に価値のないものとされてしまう。特に本人がそのような価値観しか持てていない場合は、その課題での躓きは大きく、心理的な危機を招くことが多い。

今回、75歳まで会社役員など要職について活躍してきた男性で、その引退を契機にめまいを主訴とする心理的危機に陥り、内科より精神科クリニックに紹介されてきたケースを報告する。その治療過程を通じ、老年期の心理的な躓きとそこからの立ち直りについて考察を試みたい。

 

症例の提示

1.症例 E氏 男性 初診時75歳

主訴:めまい

診断:鑑別不能型身体表現性障害

ICD-10:F45.1 Undifferentiated Somatoform Disorder

DSM-3:300.81 Undifferentiated Somatoform Disorder

2.生活史

Eさんは旧制帝国大学卒業後、某大企業に技術者として入社し、途中2年間兵役に就いた。軍隊では技術将校として自分でも考えられないほど活躍したという。戦後同じ企業に復帰し、その後営業に転身、日本の高度経済成長期に企業人として活躍した。いわゆる猛烈社員であり、帰宅は毎日午後11時を過ぎ、休日を返上して出勤するような生活が続いた。その上、転勤に継ぐ転勤、長期出張に明け暮れた。43歳時に胃潰瘍にて倒れ、手術を受けている。65歳の定年後も勤めていた会社の役員を勤め、さらに70歳からは関連会社の社長に就任、75歳にて完全に引退した。家族は妻と2人暮らし。娘が3人いるが、いずれも結婚して独立している。経済的にも恵まれており、閑静な住宅地に居住している。

3.現病歴

その完全な引退の直後より、めまいが出現した。大学病院の内科を受診するも内科的異常はなく、耳鼻科を紹介されるが、そこでも異常はみとめられなかった。その際、精神的な要因を指摘され、精神科受診を勧められるも、本人は自らの症状が身体的疾患に起因するものであると頑なに主張し、別の内科を次々と受診した。この間めまいは改善されず、発症の4カ月後より、心悸亢進、不眠がそれに加わった。さらにその後、眼痛、頭痛、嘔気など、不定愁訴が次々と出現した。これに対して内科より安定剤等が処方されたが、自ら薬剤を調べ上げ、その副作用を心配するあまり、ほとんど服用しなかったという。この間、内科医に対して身体的原因をつかめないということで怒りをぶつけるようになる。そのため発症より10カ月後に内科より当方の精神科クリニックに紹介された。本人はこの時点でも受診への抵抗感が強かったものの、家族からも強く勧められ、不本意ながらも受診したという。

治療の経過

面接は週1回、予約制によって1回1時間で行った。この治療構造に関する契約は初回面接時に行っている。

1.第1期(第1回〜第8回面接)

初診時、夫人と一緒に来院し、開口一番に「自分はこの科の患者ではないと思うのですが」と前置きしてから、めまい、動悸、息苦しさ、目の痛み、などを次々と訴え、さらに内科で処方された安定剤に対する、不信感を訴えた。「内科で精神的なものに起因していると言われましたが、私には全く思い当たらないのです。ただどうしてあのようなめまいが生じるのか不思議でたまらない。」との発言に対し、「めまいの原因が身体的なものか、精神的なものかはさておき、それらの症状が出ることによって、今あなたが精神的に大変疲れておられることだけは確かだと思います。いずれにしても今は心の休養が必要なのではないでしょうか?」と対応した。身体の休養は寝ていれば取れるものの、心の休養は気持ちが焦っている時は逆にとりにくいものであること、安定剤は心の休養をとる上で便利な薬であること、を話し合い、さらに薬の安全性についても、その副作用を含めて説明した。薬は一つの道具に過ぎず、医者からの情報をもとに本人が主体的に使えばよいものであることも併せて伝えた。その結果、Eさん自らが薬の服用をしてみたいと発言した。処方は以下のとおりであった。[Alprazolam 0.4mg×2錠 分2・朝食後・昼食後, Etizolam 0.5mg×1錠 夕食後,Brotizolam 0.25mg×1錠 眠前.]

1週間後、夫人と一緒に再来院し、めまいは残っているものの、動悸、息苦しさはかなり改善されていることを報告した。いずれにしても本人にとっては、驚くほど症状が改善したと言う。薬もしばらく続けてみたいとの発言。その後1週間に一度の面接を継続した。第8回までの面接の内容は主に症状の改善度の報告に終始した。

2.第2期(第9回〜第20回面接)

9回目の面接で、症状はほとんどなくなったが、めまいだけは時に出現すると報告したあと、「実は今、一つ困ったことがあるのです。」と話し始めた。ゴルフの会員権の売却に関してのことであった。ゴルフは会社にいたころの唯一の楽しみだったが、この症状が出始めてからは全く行く気にもなれなくて、今ならばかなり有利な条件で売却が可能であるため、売却しようとした。しかしいざ売る段になると、どうしても契約書に印を押すことができずそのまま帰ってきたと言う。自分の行動の不合理さ、優柔不断さに驚いてしまったとのことだった。ゴルフについて聞いていくと、それはまさに企業人としての彼の活躍と、政界財界の要人との社交の象徴のようなものであった。そこで筆者は「ゴルフ会員権をあなたは単に金銭的なものとして見ておられるようですが、しかしそれは、あなたの今までの活躍の勲章のようなものであり、あなたの心の支えになっていたものですよね。」と問いかけてみた。何秒かの沈黙の後、「そうです・・・私はそれを失うのが淋しいのでしょう。」と発言した。初診以来、彼が自分の内面のことを語ったのはこの時が最初であった。このゴルフ会員権に関する話し合いは一つの転機になった。その後の面接で彼はそれまで組織というものに強力に心を支えられてきたこと、そして今やそれを失ってしまったために大変不安に陥っていることに気付き始めた。その過程の中で、めまいはほとんど出現しなくなり、代わりに抑鬱症状が出現する。若干の抗鬱剤 [Setiptiline 1mg×3錠 分3]を加えながら、受容的な話し合いを続けた。この時期に彼は、仕事のみが生き甲斐であって、なんら趣味やプライベートな生活の楽しみを作ってこなかった事を述べる。ゴルフはむしろ仕事の一部であったという。

3.第3期(第21回〜第32回面接)

第21回〜26回面接でめまいは全く出現しなくなり、抑鬱感も徐々に軽快した。26回目の面接でEさんは「先生、教会の日曜学校で聖書の勉強をしようと思うのです。実は引退した時、一度教会に立ち寄ったのですが、そこに来ているのは同じ年配の人でも、もう10年以上勉強している人ばかりだったのです。それで、自分はとても追いつけないと思ってあきらめていたのですが、自分のペースでやればいいじゃないか、と思うようになったのです。」と発言した。筆者が、「それはいいことですね、頑張って下さい。」と伝えたところ、彼は「いや、頑張ろうとは思わないのです、楽しもうと思っています。」と返答した。筆者は彼の中にそれまでとは異なる新しい価値観が展開しているのを感じ、この方はもう大丈夫だろうと確信した。この価値観については考察で詳しく論述する。その後、抗鬱剤を漸減し中止した後、抗不安薬も漸減し、不眠時の睡眠導入剤を頓服として残すのみで、初診から約8カ月経過した第32回の面接を最後に実質的な治療は終結した。

症例の心理的構造に関する考察

本症例でゴルフの会員権に関するエピソードが治療の一つの転機になったと思われるが、そこには同時にEさんの心理的な特徴がわかりやすい形で表出している。Eさんはゴルフの会員権の「今ならばいくらで売れるか」という金銭的な側面のみを意識していた。しかしそれは「心のささえ」としての心理的な側面をも持っていた。にもかかわらず、そのことについてEさんはほとんど意識していなかったといえる。その結果、当然売却の契約書に印を押すべきところを、「なぜか」捺印することができずに帰ってきたのである。

ところで、このゴルフの会員権が持っている二つの側面は異なる性質を持つものである。金銭的な側面は数字ではっきりとしめすことができることからもわかるように、非常に具体的な性質を持っている。それに比べて、「心のささえ」という心理的な側面は抽象的な性質を持っている。Eさんにとって値段という具象的な側面のみが前面にたち、他方の心理的で抽象的な側面は後方に退いているといえる。

このことは、Eさんが企業という非常に具体的なものが評価される世界で75歳まで活躍してきたことと無関係ではない。ある人が一つの生き方を強力に推し進めたとき、それと対称的な別の生き方はその人の影の部分となる。Eさんは具体的な外面的世界に注意をむけるという生き方を強力にとるあまり、自らの内面的世界を振り返るということをあまりしてこなかった可能性が強い。人間の内面的世界は抽象的な世界といえる。Eさんは自らの内面を見詰めるということに関して未分化なところがあると言わざるを得ない。

Eさんにめまいを始め、様々な身体症状が出現したことの理由はここにある。症状の背後には、それまでの組織人としての活躍の場を失ったことからくる心理的な危機が存在していた。ところが彼は自分の内面に起こっているこの危機にはほとんど気が付いていなかった。彼は自分の心という抽象的なレベルで危機を認知できず、その結果それを身体という具体的なレベルに置換して認知していたと言える。これが彼の身体的症状に他ならない。身体とはまさに具体的、具象的なものである。辻(1980)は内面の危機が本来の抽象的なレベルで認知されずに、そのため身体という具象的レベルにおいて症状化し表現されるということを、神経症のほぼ全体に共通して見て取ることができる根本的な機制であると指摘している。

ところで、Eさんの「めまい」とは何なのであろうか。このことを考えるには、日本という国の社会的状況を視野にいれる必要がある。よく我々日本人は自分の会社のことを、「わが社」と言う。このことは会社という組織と、自分自身との境界がたいへん曖昧になっていることの現れともいえる。Eさんにとって、組織は自分自身のようなものであったし、それは彼の心を支えてきたものである。日本人一般にこの傾向が強いとはいえ、会社とは独立した自分自身のプライベートな生活を大切に作り上げることは重要なことである。しかしながら、Eさんはこのことを全くしてこなかったといってよい。その彼が、引退という事態によって、自分から組織を差し引かれることになったのである。組織は彼の唯一のそして強力な心理的基盤であった。それを彼は失ったのである。心理的基盤とはそれが当然動かずに確固としたものと感じられるという意味から、心理的な地面とも考えられる。その動くはずのない地面が動いたのである。彼の心に地震が起こったともいえる。それを彼は上述した理由から、抽象的なレベルでは認知せず、めまいという身体的、具象的レベルで認知したわけである。めまいとはまさに、地面がゆれる体験であり、それがめまいの心理学的な正体といえる。

 治療過程に関する考察

1.治療への導入とインフォームド・コンセント

しかしながら、Eさんのような方に対して、「それは、心理的な揺れをめまいと感じているのでしょう。」と伝えても治療にはならない。患者の不信感をあおる危険性すらある。今回のケースでは精神科に受診するまで発症から10カ月が経過していた。この間受診した内科で、精神的な要因を指摘されたにもかかわらずである。その理由としては、上述してきた彼の内面性への気付きの悪さも大いにかかわっていると思われるが、それに加えて精神的、心理的に病む、ということに対する彼自身の偏見もその大きな原因になっていた。彼にとって心を病むということは、弱い人間に起こることであり、彼自身は常に強者であった。むしろ、悩める後輩たちの相談にのるという立場にあり、その自分が心を病むということはあるはずのないことであった。それが彼の精神科受診を拒絶する気持ちにつながっていた。そこで治療者は初回の面接でめまいの原因は棚上げにしておいて、いずれにしても精神的に疲れていることを指摘し、その休養を図るための道具として安定剤の服用をすすめた。

またこの際、薬に関するインフォームド・コンセントを徹底して行った。特に精神科領域の薬物に対する一般の人の抵抗感は根強いものがある。そのことの一つの大きな要因は、自分の心が薬を飲まされることによって医者をはじめとする他者にコントロールされるのではないかという不安感であると考えられる。すなわち自分の自律性が侵されるのではないかという恐怖感がそこに潜在している。一方、インフォームド・コンセントはあくまで患者の自律性(autonomy)を尊重するという前提の上に成立する(Faden,R.R.,Beauchamp,T.L.,1986)。したがってそれを行うということは暗黙のうちに治療者が患者の自律性を尊重していることを伝えていることになる。本症例の場合も、薬の性質、利点、そして副作用についても情報を十分に提示し、そしてそれを使うか使わないかは、あくまで本人が主体的に選択すればよいことを伝えた。その際、薬はあくまで道具であって、それを使う主体は患者自身であるということを明示し、上述した不信感や恐怖感を払拭するよう心がけた。薬は単に薬物ではない。それをめぐっての患者と治療者との関係性が常に問われている。

2.喪失体験と喪の仕事

さて、この初回の面接の後、Eさんは今までとは違って薬を服用するようになった。薬は著効を示し、そのためもあってか彼は治療者を信頼してくれるようになった。そして、第9回の面接でゴルフの会員権の話題が出た。この面接中の話し合いのなかで彼はそれを失うことを自分が「さみしい」と感じていることに気付く。この治療のなかで彼の注意が初めて自分の内面に向いたのであった。心理的構造の考察の項にて述べたように、彼のそれまでの価値観は外面的で具体的なものに拘束されていた。そのためゴルフの会員権が彼の心を支えていたという、その内面的な価値を見過ごしてきた。しかし、それを失うことが「さみしい」と感じていることに気づくとき、彼はその内面的な価値に対して開かれたといってよい。いわば、それまで彼を支配してきた価値観に対して、新しい別の価値観が流入してきたとも言える。

この話し合いが一つの突破口となり少しずつではあるが、彼は自分の内面に気付き始めた。それと平行してめまいはだんだんと出現しなくなり、それに代わって抑鬱症状が出現した。新たなる価値観の流入は、従来の心理的態勢の喪失としての側面を持っている。抑鬱症状はその喪失に対する「喪」の過程がはじまったことを意味している。

Eさんの場合、組織からの引退は大きな節目であったにちがいない。人生にはいくつかの大きな節目が存在し、その際必ず喪失体験が伴う。それまでの自分が失われるという体験である。そして新しい態勢の自分がそこに再生する。このことは、象徴的な死と再生の体験と考えられる。人は人生の中で幾度か死んでまた生き返るものだともいえる。

この喪失体験をした時、人間はかなり共通した心理的プロセスを踏む。周知の通り、Kübler-Ross,E.(1969)は死を告知された患者が示す、1)「否認」、2)「怒り」、3)「取引き」、4)「抑鬱」、5)「受容」、の5段階を指摘してる。彼女のこの研究は、自分の生命の喪失という重大な事態に直面している患者に関するものであるが、小此木(1979)はそれが同時に、重大な喪失体験をした人間が共通して踏む心理的段階としても理解されることを指摘している。Eさんのここまでの経過も大まかにこの5段階に沿って理解することができる。最初彼が心理的な支えを喪失してしまったために精神的な危機に陥っていることは1)「否認」され、それはむしろめまい等、身体的な問題として位置付けられている。次に、めまいの身体的原因を見出せないことで、内科医に対し2)「怒り」をぶつけるようになった。精神科に受診した後も第1期では、自分の事態を内面的なものとしてとらえようとはせず、症状をいかに軽減させるかという話題に始終した。これは医師との3)「取引き」といえる。「取引き」とは全体的で大きな喪失をできるだけ部分的で小さな喪失に置換しようという心理機制である。そしてその後、彼が自分の内面に気付き始めるのと平行して4)「抑鬱」的となった。ここで彼は自分の失ったものの本質に触れ、同時にその喪失に対する喪が開始されたといってよい。したがってこの抑鬱症状は必然的なプロセスとして出現したものと考えられる。ここでの面接では彼の嘆きを聞くことに徹した。そこで治療者として心掛けたことは、この患者の抑鬱という状態を嫌がらず、怖がらず、無下にそこから早く脱出させようと焦らないことであった。むしろ、Eさんの状態に一緒にどっぷりとつかっていることを心掛けた。ここでは治療的には「喪の仕事」(mo-urning work)を行っていたと考えられる。この「喪」はその悲しみをしっかりと悲しんだときに「明ける」。そこに5)「受容」の段階があるのだが、この受容の段階は同時に再生の過程とオーバーラップする。そこで、次に老年期における再生とはいかにして可能であるかが問題となってくる。

3.人生の後半の目的と価値観

年をとるということは、若いころのエネルギーやパワーが失われて行くことである。そのため、エネルギッシュであること、パワフルであることのみに価値を感じている人にとって、自分が老いていくことは単に自らの価値が減じて行くということに他ならない。日本は欧米諸国よりは、老人の価値を認める社会であると言われている。現に日本では組織における権力は高齢者の手中にあることが多い。しかし忘れてはならないことは、それはその人が組織に所属しているという限りにおいてなのである。組織から引退したとき、突然その権力は失われ、このことは浦島太郎が玉手箱を開けた時のごとくである。いずれにしても、早晩にパワーは失われていくし、エネルギーは失われていく。それでは老人とは価値のないものなのだろうか。若者の上昇的な価値観からのみ見るならば、このことは「然り」である。しかし、人生の後半にはそれとは異なった価値の軸が出現するのではないだろうか。筆者が経験した別の高齢の患者で、「わたしは70歳をこえてからやっと花が美しいと思えるようになりました。」と発言したケースがあった。そこにこそ、もう一つの価値観が存在するように思われる。老人は上昇的なパワーを喪失する。しかし、ほんとうに老いなければわからない価値が存在することもまた事実である。Jung,C.G.は人生の目的を前半と後半に分けて、「人間は二つの目的をもっている。第一の目的は自然的目的である。それは子供をもうけ、一家を守り養うために働くこと、金銭を得て、社会的地位を得ることである。そしてこの目的が達成された時、第二の目的の段階が始まる。それは文化的目的といってよい。」と述べている。さらに「若い人が外側の世界に求めなければならなかったものを、人生の午後に身を置く者は、自らの内側に求めなければならない。」と述べ、人生の後半では自らの内面との付き合いが重要となってくることを示唆している。Eさんの場合、先述したように、内面を振り返ることをあまりしてこなかった分、この人生の後半の目的、価値観への展開において躓いていたとも言える。この躓きが老年期の神経症の発症機制を考えるうえでの一つの重要な着眼点になるだろう。これに関連してJung,C.G.(1939)は人生の前半の価値観を人生の後半に引きずり込んでいる人は心の損傷という代償を支払わなくてはならないことを指摘している。

Jung,C.G.は人生の後半の価値観を展開させることが、その人が全体性へと至る過程であると考えている(Storr,A.,1988)。一方、Erikson,E.H.(1982,1986)が老年期の課題を 統合vs絶望と表現し、統合を全体性の感覚であると表現していることも、このことと密接に関係している。なお、Jung,C.G.とErikson,E.H.との着眼の比較に関しては河合隼雄(1989)の論述がある。

ところで患者が高齢の場合、治療者は患者よりもかなり若い場合が多い。そのとき、若い治療者が老人を単に失われていく存在としてしかとらえていないならば、すなわち上述した人生の後半の価値観に対して全く無頓着であったなら、老人の喪失体験に本当の意味で付き合うことはできないのではないだろうか。上昇的な価値観とは異なったこのような価値に対しても、治療者は注意を払い、開かれている必要がある。老人を大切にというが、このことの認識がなければ、それは単なる口先だけのお題目になりかねない。

Eさんは抑鬱的な状態から徐々に立ち直った際、キリスト教教会の日曜学校で聖書の勉強をしようと思うと発言した。以前、同年配の人達よりスタートが10年以上遅れてしまったために諦めていたのが、「自分のペースでやればよい。」と思えるようになっていた。ここには、「遅れている」とか「追い付けない」といった競争的、上昇的価値観からの脱出を見て取ることができる。筆者はそれを支持し、「頑張って下さい。」と言ったところ、彼は「いや、頑張ろうとは思わないのです、楽しもうと思うのです。」と返答した。筆者はつい上昇的な価値観から「頑張って下さい。」と言ってしまったのであるが、Eさんの「楽しもう」という発言は別の価値観からのものだった。さらに重要なことは、ここで語られた内容が宗教性との出会いを示唆している点である。宗教性とは、内面性への回帰なくしてはありえない。具象的な世界にばかり向かっていたEさんの関心が内面性へと向かい始めたと言ってよい。引退のころに教会を訪ねていたということは、その種子はあったと考えられるものの、上述の上昇的な価値観のためにそれは阻害されていた。それが新しい価値観の展開と同期して発芽したと言ってもよい。その二重の意味から、そこには再生したEさんがいたと考えられる。

おわりに

本症例は75歳時の完全な引退まで老いることへの心の準備が開始されなかったケースといえる。企業人として、具体的、外面的な世界でのみ生きてきたこと、そしてそれと共に上昇的、効率的な価値観しかもっていなかったことが、「引退」の受容、ひいては「老い」の受容を困難とさせていた。したがって、彼にとっての「引退/老い」の受容は彼自身の価値観を変容させることなくしては達成できなかった。そこに、老年期に横たわるライフサイクル上の大きな節目を見ることができる。この節目を乗り越えて行くとき、必然的なプロセスとして彼は抑鬱状態に取り込まれ、そこに象徴的な死と再生が体験されたと考えられる。それ以前は外面的な世界にばかり向かっていた彼の関心が、この節目を境に内面へと向かい始めている。この内面性への展開が、人間が自らの老いを受容していくことに不可欠であることを、本症例は典型的に物語っている。そこにあるのは、人生の前半の上昇的で効率的価値観とは異なった、人生の後半の価値観であると言える。

 

謝辞:本小論に関してさまざまな貴重な御意見を下さいましたユング派分析家の川戸圓女史と、御校閲下さいました和歌山県立医科大学の佐方哲彦先生、そして筆者の神経症理解の理論的な礎を与えて下さった辻悟先生に心から感謝の意を表します。

 

 

文 献

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