強迫神経症の構造 (大阪大学人間科学部同人誌マクロファージ)
強迫神経症の構造
小寺 隆史
◎はじめに
筆者は、精神医学や 臨床心理学 といった分野を 自らの中心的な領域としているが、これらの中心を占める 人格理論、治療理論について 辻 悟氏 から多くの教示を得ている。従って ここで述べられる理論も 辻 悟氏のものが中心となることを 断っておきたい。 今回は 強迫神経症とは何なのかを一つ症例をあげて 考察して行きたい。
◎症例Tさん
38才 男性 銀行員
非常にまじめな銀行員で 仕事もよくでき 遅くまで残業したうえ 家に帰ってからも仕事の続きをしたりしていた。そのかいあって 栄転となり 10人の部下を持つようになったが、そのころから強迫症状が出現する。以下はTさんの訴えの一部である。
「お札の勘定、何度も繰り返す。普通は5分から20分もあれば出来る事を、私は1時間半もかかる。10枚あったとすれば1度は10枚と思うんですけど、また調べ直して」
「あっているかどうか心配で自分の判断をつけれなくなる。」
◎相対的保証としての行為
Tさんの訴えから強迫神経症の構造について何が読み取れるかを考えてみよう。Tさんは、お札を勘定してもそれが間違っているのではないかと思い、再び勘定し直す。そしてやり直しの回数が職務に支障をきたすぐらい多くなっている訳である。
では、何故Tさんはお札を何度も勘定し直すのであろうか?答えは簡単である。何度も勘定し直せば、それだけ誤る率は減るからである。即ち、勘定のし直しは誤りをなくす為に相対的には有効なのである。
◎相対的保証と絶対的保証との差異
ところがTさんは相対的に有効な手段を際限なく繰り返す事で絶対的な保証(絶対に誤まらないという保証)を手に入れようとしている。
ここにTさんの錯覚がある。即ち、相対的保証を与える行為を何回も繰り返す事で絶対的保証を得ようとしている。しかし相対的保証はいくつあっても相対的保証であって、行為を何回繰り返しても絶対的保証との差異は残るのである。
◎行為を打ち切ること
では、この相対的保証を与える行為を打ち切るとは、どういうことであるのか。それは、打ち切る時点において絶対的保証と相対的保証との差異を、我々人間は自らが引き受けなければならないという事である。これは決断の問題である。それを引き受けると決断する時、我々はその行為を打ち切るわけである。従ってTさんの場合なら、お金の勘定を誤ってしまう可能性が残る事を引き受けた時、お金の勘定を止めることが出来るわけである。
◎強迫神経症の根本機制
以上より強迫神経症の根本機制が明確となる。強迫神経症者は 絶対的には 保証されないという 人間である限り回避できない不安を引き受けようと決断せずに その決断を回避しようとする。即ち不安を引き受けようという決断の回避である。この決断を回避するために 強迫神経症者は 相対的保証を与える行為を強迫的に繰り返しそれを絶対的保証にすりかえようとして苦しむ。 しかしそれは所詮不可能な望みなのである。
◎決断の自由性
ところで ここで注意しなければならないことは この決断をするかしないか あるいは どの時点で決断をするかは 本人の自由である ということである。主体的な決断が自由性と表裏をなすのは当然のことである。このことを強迫症状にもどしていうならば どの時点で強迫行為を止めるか つまり何回お金を勘定し直して止めるかは 本人の自由ということである。このことを治療者は心に留めておかなければならない。そうでないと応応にして 治療者が患者の決断を代行させられかねないのである。勿論 代行など出来るはずのない問題なのであるが。
◎決断の問題のすり替え
強迫神経症の根本機制は 上述のように 主体的な決断の回避であり これは典型的に強迫症状に反映されるわけであるが 中心的な症状以外でも さまざまな決断回避のための工作 とでもいえることが行われる。
例えばTさんの場合 「きちっとできているかどうか・・・自分で判断をつけられなくなる。」と言っている。この発言は以上の読みにおいて翻訳するならば 「私が主体的決断をしないのは 判断力が無いせいです。」と言っているわけで 明らかに 主体的決断の問題を判断力の問題にすり替えてしまっている。
◎もう一つの重要な機制
さて ここで 強迫神経症のもう一つの重要な機制に目を向けてみよう。それは不安という内的なことを お金の勘定といったような外的でかつ操作可能なことに置き換えていることのなかに見いだすことができる
ここには表裏をなす二つの機制を抽出することができる。一つは自分自身を自身が身をおいている空間や状況と同一視しているということ。もう一つは そのようにして外的に投影された不安 ひいては自分自身を操作しようとしていることである。これらの機制は 主体決断を空間性に転化している とまとめることができるだろう。
◎空間性への転化
ここで 空間性への転化ということを Tさんの例についてもう少し詳しく見てみよう。空間とはその人をとりまく状況であり その人を守るカプセルとしての機能を果している。銀行員であるTさんの場合 そのカプセルは銀行であった。銀行は 与えられた仕事をきっちりこなしさえしていれば Tさんを守ってくれる空間であった。Tさんの症状が お金の勘定という銀行での典型的な仕事に現れたのはこのためである。このように強迫症状の選択は その人が依存している空間/状況と密接に関係していることが多い。即ち 空間化というのは 単に外的空間への投影ということにとどまらず その外的空間が その人を守るカプセルとして機能している という意味をもっている。
空間化について もう少し他の例をあげて見てみよう。郵便局員Bさんは まじめで熱心な局員であったが ある時から郵袋の口をちゃんとしめたかどうか 何度も確認するという強迫症状に陥った。
車好きのCさんは 車を何度も何度も洗車するという強迫症状に陥った。
これらの例に見て取れる事は いずれも日ごろ本人が心の頼り所としている空間が 選択されていることである。TさんやBさんの場合は それが職場という空間であり 車好きのCさんの場合は車という空間であった。車もまさにカプセルである。
特に日本の場合 職場との合一感が強い事を考えあわせると 職場に関連した内容選択が多い事は 納得のいくことである。
◎操作性への転化
さて 前述したように 空間への転化と表裏をなす機制として操作性への転化がある。Tさんの例についていうならば お金を勘定することは 正に操作が可能なことであり 不安を操作によって除去しようとしているわけである。このことは先程の郵便局員Bさんの郵袋の確認や 車好きのCさんの洗車も 同じく操作の可能であったことを 思い出していただければよくわかると思う。
以上をまとめると強迫神経症者は不安を引き受けるという主体的な決断を回避し その不安を空間に転化したうえで それを操作的に取り除こうとしているといえる。
◎強迫神経症者の病前性格
ところでこれらの機制から逆に 強迫神経症に陥る人の病前の性格特性を伺い知ることができる。人間は自らの主体的決断によって生きている部分と 空間とか状況というような外的枠組に頼って生きている部分とがある。勿論この二つの部分は複合されていて これはこっちなどと簡単に分類はできないが 一応分けて考えることとする。そのように考えると強迫的な人は 平均的な人と比べると 主体的決断の部分が後退していて その分 外的な依存枠にたよっている部分がより大きな部分を占めている といえる。
このような 少々乱暴な図を用意して Tさんの場合を考えてみよう。
◎ Tさんの強迫の全貌
Tさんの場合 外的依存枠は銀行であった。Tさんが非常にまじめな行員で その仕事がきっちりできているということが Tさんの大きなささえになっていた。その分Tさんの主体的な部分は後退していた・・というより もともとあまり育っていなかった。そこを埋め合わせるために Tさんはしゃにむに仕事をし それに過度に依存してきたわけである。
ところがその結果 不幸にもTさんは栄転してしまい 10人の部下をもつはめになった。従ってTさんは決断をして部下に指示をあたえなければならない立場となってしまった。即ち それまでのように 与えられた仕事を単に一生懸命にこなせばよいという地位を失ってしまった。この意味において 仕事はTさんにとって 外的依存枠としての性質を後退させたことになる。これを図示すると 次のようになる。
このブランクを強迫行為による外的依存枠の拡大によって補おうとする。ここに強迫神経症が成立する。
ここで外的依存枠が後退した時 その分をTさんがより主体性を発揮すれば良いわけであるが Tさんはもともとこの部分が弱いのでそれができない。従ってその部分(2図の空白部分)はTさんに対し不全感となって つきつけられる。今の自分がこれで良しとはできなくなってしまったTさんは パニックとなり もともと弱い主体決断の部分を 逆に後退させてしまう。(2図→3図) その結果より大きくなった不全感を 後退している外的依存枠の幻想的拡大を企てることによって埋めようとする。Tさんの場合この企ては お金の勘定の際限ない繰り返しとして 営まれたわけである。即ち ここにTさんの強迫症状が成立する。 以上が強迫神経症の構造の全貌といえる。
◎他の病態との関連
さて その強迫神経症が他の病態のなかで どのような位置をしめるかについて 考えてみたい。前述したように 他の神経症は不安を身体化するのに対して 強迫神経症はそれを空間化する
身体は自分の内にあるものでありながら 心に対しては外在する存在である。そしてさらに空間は身体より より外の存在である。従って内的なものを外的に投影する程度からいうなら 強迫神経症は他の神経症より重篤な神経症といえる。それを支持するように 治療的にも治すことが 最も難しい神経症といわれている。フロイトが他の神経症をエディプス期起源とし 強迫神経症をその一つ前の段階である肛門期起源としたことも このことと密接に関係する。
また この強迫神経症の空間化機制は 自分と空間/状況との合一性の強さを示しており この意味において境界例や躁欝病などにより近い病態と考えうる。その証拠に境界例レベルの患者で強迫構造のみられる患者がかなり多くみられる。また 欝病の患者で空間への依存性が大きく それを喪失することによって欝に陥るグループが知られている。その最も典型的な例として「引っ越し欝」がある。
住み慣れた家を後にして 新しい家に引っ越したとたん鬱に陥る。家=空間に 我々は多かれ少なかれ精神的に依存している。ここにいれば落ち着くという空間を我々はもっている。しかしその依存性があまりに大きい場合 その空間を失うことが ことのほか大きなショックとなることは共感できる。特に空間と自分とが未分化な人にとっては 空間の喪失体験は 実は自己喪失体験となる。
また「栄転鬱」というのもあるが これについては今回の症例Tさんの構造から読者のみなさんが類推していただけたらいいと思う。ただそれが強迫として症状化するのか 鬱として症状化するのかは状況/空間に対する操作性の強さにかかわってくると言える。そしてこの操作性の強さこそ 神経症レベルの特徴と言って良い。その意味において鬱病は病理レベルは重く 境界例と同じぐらいのレベルと考えられる。
◎後書き
今回はこのへんで筆を置こうと思う。強迫神経症の構造について 見てきたわけであるが ではそれに対してどう治療していくのか という問題については触れなかった。原則的にいうならば Tさんの場合だと 不安を引き受けていくのか それともそれを避けようとして結局は強迫症状の苦しみを引き受けるのか 人間には残念ながらその二つの選択枝ししかないという洞察に いかにもって行けるか そしてそのうちのどちらを選ぶかは 実はあなたの自由なのだ と伝えることができればよいわけである。そして後はあなたの決断次第なのであると。しかし事はそう簡単には進まない。以上の事を口で説明しても なかなかうまくは行かないことが多い。それが真に本人の洞察となるためには、治療者は 本人が本人の姿を見ることができるような姿見の役割を、根気よく繰り返さなければならない。