治療精神医学からみたうつ病 :昨今のいわゆる新型うつ病も視野に入れて(第23回こころの治療を語る集い資料 2010年6月27日)
第23回 こころの治療を語る集い資料
(2010年6月27日)
治療精神医学からみたうつ病
— 昨今のいわゆる新型うつ病も視野に入れて —
小寺クリニック 小寺隆史
この会が「精神病治療を語る集い」として1988年にスタートし20年が経過した2008年に「心の治療を語る集い」と名称を変更しました。そのいきさつは、統合失調症のみならず、うつ病、人格障害にも討論の対象を広げようということでした。今回、心の治療を語る集いとして3回目、通算で23回目の会合となります。
去年は、うつ病がテーマとして取り上げられましたが、今年も引き続き、うつ病を取り上げたいと思います。
(1)うつ病をめぐる精神医学の現状とその問題点
昨今、SSRIやSNRIをはじめとする、新しい抗うつ薬の開発、発売が相次ぎ、それに呼応しているのではないかと思いたくなるくらい、うつ病の診断が多くつけられるようになってきています。そこには、次のようなさまざまな問題が潜在していると思われます。
① 新薬の開発に伴い、脳内神経伝達物質に焦点があてられ、うつ病の原因がそれら物質の増減の異常にあると、いわば勝手に決められてしまっていること。脳内物質の増減は、例えそれが確認されたとしても、うつ病という事態の「結果」として生じている可能性が大であるにもかかわらず、すぐにそれは、「原因」であるとされます。これは、自然科学のいわば「癖」であって、幻想である可能性が大きいと思われます。
そして、このことの何よりの問題は、うつ病の原因が物質に還元されると思うが故に、その心理学的理解が極めておろそかになってしまうことです。⦅その結果、最近の精神科医の研究会では新しい薬が効いたか、効かなかったか、副作用はどうかという話に始終することが多くなっている。 ⦆
② 診断基準が、DSMや、ICDの影響で「これらの項目の内、何項目以上あてはまる」式の診断が増えています。この診断方法自体に問題があるわけではないのですが、逆にそれではうつ病とは何かと問われたとき、「これらの項目の何項目以上があてはまることです。」という答えしか出てこないという危険性を孕んでいます。これでは堂々巡りになります。またこの症状の羅列項目を知っていることを心理学的理解とはき違えているような専門家も多く、その陰で、うつ病の本質に関する理解は忘れ去られているかのように思われます。
③ 患者自身がインターネット等を通じて、これら項目式の診断で、自己診断を行い、私はうつ病ではないかと言って来院することが増えています。その際、「うつ病」は上述の経緯から、あたかも身体の病と同じレベルで患者に認識されています。つまり、自分の脳がうつ病というものに罹患した故に、気力を失い、落ち込んでいるのだ、という認識になります。そのことは、治療的な話し合いを組む上で障害になることも少なからずあります。
④ 近年新しいタイプのうつ病が増加していると言われています。その特徴は、従来のうつ病が自責的、自罰的であることが多いのに対し、往々にして他罰的であると言われています。罪業妄想等はみられず、うつとしての深刻さも今ひとつ重くない。そのようなうつ病を、新型うつ病とか、非定型うつ病と呼ぶ人もいます。
以上のような問題が顕著となってきている今、改めて、うつ病とは何なのか、その本質を問うことが重要と思われます。
ここでは、まず「従来のうつ病」について、精神分析学、治療精神医学など、「こころ派の精神医学」がそれをどのように理解してきたかを、再考してみたいと思います。
(2)うつ病とはなにか
昨年のこの会でも、うつ病とは何かが問題となりました。筆者はうつ病を喪失反応と考える、とお答えしました。筆者は内因性うつ病といわれてきたものも含めて、すべて喪失反応であると考えています。
その際、辻 悟先生はうつ病とは「自己の喪失」と答えられたと覚えています。
(3)内因性うつ病という概念を巡って
ここで通常の喪失による悲哀と、うつ病とは、質が違うものであり連続性はないとする主張があります。その主張にも耳を傾けなければなりません。それが根拠とするのは、次の2つの相違点があるからです。
① 1つは、通常の悲哀では、喪失は目に見えた具体的喪失である場合が多い。大事な人が亡くなったとか、住む家を災害で失ったとか。ところが、うつ病では一見何も失っていないのに、落ち込みが起こり得ること。(従って内因性であるとされる)
② もう1つは、通常の悲哀が、喪の過程をくぐり抜けて、なんらかの解決をみていくものであるのに対し、うつ病のそれは、なかなか解決せずに遷延する場合が多い。(従って内因性であるとされる)
以上2点のために、生物学的な精神医学は、両者を別のものと考えてきました。喪失したものが、明白に具体的にある場合は、反応性の(あるいは外因性の)抑うつとし、それが見あたらない場合、また病的に遷延する場合、内因性のうつ病としたわけです。うつ病は主に、この内因性うつ病を中心として考えられており、しかも内因性という概念のすぐ向こう側には、器質性(あるいは脳内物質性)という概念が見え隠れしているわけです。
さて、これに対して、悲哀とうつ病とは、一方が心因性のもの、一方が脳の病気、というのではなく、どちらも「心のこと」として理解でき、差異はあるものの、連続性を持っているというのが、治療精神医学的立場です。このことを考える上で、S.フロイトの記述が役に立ちます。
(4)S.フロイト著 『悲哀とメランコリー』より
フロイトはその著作『悲哀とメランコリー』でうつと、喪失に伴う悲哀との類似と相違について記述していています。
その中に上記の①の点についてのヒントがあります。フロイトはうつ病者について、「患者自身が何を失ったか意識的にはつかめないでいる」と述べ、さらにこう続けています。「メランコリーの機縁となる喪失を患者が知っているときでさえ、そのことはありうるのである。というのは、患者は誰を失ったかは、知っているが、その人について何を失ったのかを知らないのである。」と述べているところがあります。このことは、具体的喪失がわかっている場合でも、そのことによって、本質的に何が失われたのかを別に考えなければならないということを示唆します。本質的に失われるものとは、結局のところ、患者自身です。これは別の箇所でフロイトが喪失した対象と自我の同一視が生じることを述べていることからわかります。(このことは後述します。)また、辻先生が去年、うつを「自己の喪失」と言われたことも、このことと、軌を一にすると考えてよいと思います。
また、このように考えてきますと、自己の喪失を引き起こすところの対象喪失は、具体的な喪失に限らないことは明白です。つまり、抽象的なレベルで起こる喪失も、やはり自己喪失を引き起こします。抽象的喪失とはどんなことかと言いますと、例えば、人はライフサイクルの節目の年齢で(厄年というのはこの年齢のことですが)今までの生き方から、次の生き方へと、変容を迫られる局面があります。その際、自分の今までの生き方は、そこでは喪失されます。この喪失は、具体的な形を必ずしもとらず、抽象的レベルの喪失として存在します。往々にして、このような場合、患者は自分が何を失ったのか、気がつかないことが多く、私のクリニックにも多くの「ライフサイクルの節目の患者」が訪れるのは、このことと関係します。
もう一度ここでフロイトに話を戻します。フロイトは悲哀にはなくて、うつにあるものとして、著しい自我感情の低下をあげています。「メランコリーの患者は、悲哀では欠けている1つのもの、すなわち自我感情の著しい低下、甚だしい自我の貧困をしめしている。」うつ病者にみられる強烈な自己非難は、「対象に向けられた非難が方向を変えて自分自身の自我に反転したものとみれば、病像を理解する鍵を手に入れたことになる。」と述べています。さらにその根底にある原因としてフロイトは「(失われた)対象と自我との同一視」をあげ「対象の喪失は自我の喪失にかわる」と示唆しています。
この同一視について、フロイトは根源的な自己愛への退行であるとし、「自己愛的な病気の重要なメカニズムである」と、述べています。ここに、プレ・エディパールなものとしてのうつ病論が展開されています。(ここで語られる同一視は、「取り入れ性同一視」と表現するのが適切かと思われます。)
では、上記②の問題点についてはどうでしょうか?なぜ、うつは遷延するかという問題です。
通常の悲哀はそれを十分に悲しむという、喪のプロセスを経て、回復に向かいます。その一方、うつ病は、その立ち直りが遅れるということは、喪の仕事がなかなか進まないことを意味しています。
それでは、喪の仕事とは何でしょうか?上記のフロイトの見解を展開して考えるならば、それは、失われた対象と自我が一体化した状態から、もう一度自我を独立させることと考えられます。ここに後の米国の自我心理学や、メラニークラインらの英国対象関係論からの視点を持ち込みますと、それは、一旦機能不全に陥った自我境界を再建すると同時に、悪い面一色であった自我(bad me)に、見失われていた良い面の自我(good me)をもう一度複合させる作業といえます。
この作業が、うつ病の場合ではなかなか進まない事情があるわけです。それは、うつ病者に準備されていた人格特性であり、それは、一つには、自我境界自体の脆弱性、それと表裏をなすものとして、good meとbad me のスプリット傾向の強い残存ということが考えられます。このことは、発達軸の上で、goodとbadの複合と、自我境界の確立の課題が十分にクリアされていなかったとも考えられますし、フロイトの言う、退行ととらえることもできます。
(ただ、ここで、②に関して、もう一つ考えておかなければならない重大なことがあります。それは、喪失の体験があまりにも強烈であったために、喪の仕事が進まないということが、起こりえることです。現在イラクやアフガニスタンで起こっている戦争によるPTSDはまさにその例です。また、第二次世界大戦時、ナチスによるホロコーストが起こりましたが、そのホロコーストからの生還者に起こったことも同様です。ホロコーストからの生還者はその体験をスプリットすることでしか、戦後を生きることができなかったのです。その体験に向き合うこともできず、人に語る事もできないままに亡くなっていった方が、多数いるはずです。(このことは、60年がたってやっと、人に話す事ができるようになったと、語ったある女性の証言から知る事ができます。)
(5)治療精神医学でのうつ病の理解と治療
うつ病者の人格特徴について、治療精神医学は、臨床に即したわかりやすいキーワードを提示しています。同一視が起こりやすい人格とは、後の精神分析の概念を用いるならば、自我境界の脆弱性として捉え直すことができます。自我境界の脆弱性の現れとして、治療精神医学は、うつ病者の「状況依存性」を指摘しています。自我の独立性が低く、その時その時の外的な状況に依存しているため、その状況の影響をもろに受けるというあり方です。これと関連して、状況が、順調に推移していることを過度にたよりにしている姿を、「順調希求」という言葉で表現しています。状況の悪化、順調性の喪失は、そのまま、自分の喪失になり、うつという状況に陥るわけです。この枠組みは、患者さんを理解する手だてとして役に立ちます。これらは、テレンバッハがメランコリー親和型人格として指摘した人格特性とオーバーラップします。テレンバッハが、指摘した「まじめさ」のより本質を抽出したものが、治療精神医学で言う「状況依存性」であり、テレンバッハが、「他者にたいする自己の優位性」として指摘したことの、本質を抽出したものが、「順調希求」ということになります。例えば、なぜ「まじめな人」がうつになりやすいのか、というときに、「状況依存性の高さ」という概念は、その意味的道筋をしめす橋渡しをしてくれます。
治療精神医学における治療では、状況と自分とが一体になっている現状の認識、さらに、状況と自分とを区別する働きかけ、あるいは、調子の良い自分だけが自分ではなく、調子の悪い自分も自分であり、その両方込みで自分であることを気づいてもらうことなど、立体的な戦略が可能となります。
例えば調子の波を訴える患者さんに対して、調子の悪いときは、必要最低のことだけしておくこと、調子の良いときは、調子に乗って思いつきで動かないこと。必要かどうか、よく考えてから行動に移すこと、という働きかけをします。
この働きかけは、調子が良いか悪いかという原則よりも、行動が必要かどうかという原則を重視してもらう働きかけであり、調子から自分が独立するための働きかけとなります。
うつ病者の自我はスプリットしていると言えます。時間軸の上でスプリットしているわけで、うつのphaseにあるときは、そのbad meしか見えておらず、しかもそれは、自分ではないという位置に置かれます。(躁に転じるケースの場合、躁のphaseではgood meしか見えていないということになります。)
うつ病者が何もできないというのは、その自分で何かができてしまうと、その自分を自分と認めるということになるからです。従って、彼が「何もできない」というのは、「この自分は自分ではない」というのと等しいことになります。
それに対して、治療精神医学は、その不調なときでも、必要最低限のことはしておこう、と働きかけるわけです。この働きかけは、つまるところ、不調な自分も自分の一部として認めようといっていることと同じです。
(6)いまどきのうつ病
最近、うつ病が増加していると言われ、またそのあり方も変化してきていると言われています。
うつ病が増加していることの理由の一つは、うつ病と診断する範囲がたいへん広くなってきており、軽症のものまで、うつ病とされる傾向にあることだと思われます。この背後には、先述したように、製薬会社の戦略が働いているのかもしれません。
しかし、一方、抑うつを訴える患者が増加しているのも事実で、それも従来のような重篤なうつ病ではなく、比較的軽症のうつ病が増加しているようです。
また、その病態としては、従来のうつ病のような自責感は希薄で、他罰的であることが多いとされています。
このことを考える上で、筆者は現代の社会のあり方がかかわっているように思います。結論から言いますと、社会がボーダーライン化していると考えます。
この社会は、便利さを求めてきたあまり、人間が葛藤するということの価値を忘れてしまった感があります。
例えば、テレビに始まり、パソコン、インターネットという電子機器の登場があります。それは我々が葛藤するという機会を確実に減少させています。それらは、我々が以前は葛藤していたような場面でも、あっという間に、ことを運んでしまいます。例えば、「便箋に手紙を書いて送り、返事を待つ」ということに対して、「e-mailをポンと送信する」ということが如何に性質の違うことか。そこには、悩みというものが希薄です。悩みとは、解決のついていないことを葛藤しながら抱え、持ちこたえることを意味します。
例えばインターネット上での、相手とのやりとりは、全人的ではなく、部分対象的です。そこでは相手は機能としてスプリットされ、必要のない場合には、簡単に消去されます。
このことは、一方で自分自身をスプリットさせます。その場、その場の自分しかないということになりかねません。そうすると、自分を一個の完結した全体として捉えることが、難しくなります。自分を一個の人間として把握するには、その中に当然ある矛盾を、葛藤しながらも内包しておかなければなりませんから。それがあまり重視されなくなってきている結果、現代では自己の希薄化が起こってきます。
また、部分化された自分は容易に対象と同一視され、対象に投影されます。(辻先生は、このことをサッカーのhomeとawayという表現を使って、本来、homeで扱われるべきことが、awayで扱われる、と指摘されています。)
境界例人格障害はその極端なあり方として考えられます。その中心的心理機制が、自己消去であると、辻先生が指摘されていますが、そのことはこのことに密接に関連していると思われます。
フロイトの時代では、抑圧ということが社会の空気でした。しかし今や抑圧はなりをひそめ、時代の空気はスプリットであると考えられます。
「悩みや、葛藤がなくなることは、結構なことではないか、人類はそのようなパラダイスを目指してきたのだから」という見方もあるでしょうが、一方で自己の存在感の希薄さという重大な犠牲を払わされていることを看過できません。
そういう時代にあって、うつ病は、従来のうつ病と比較して、どうなってきているのか。
今回、従来のうつ病の本質として、「自己の喪失」があることを見てきましたが、現代のこの自己の希薄化という状況のなかで、自己の喪失がおこりやすいことは、容易に想像できます。
新しい型のうつ病といわれるものは、いわば、ボーダーライン型のうつとしてとらえてよいのではないかと、以上のことから考える次第です。